橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[名所案内]−[高野街道 一里石]

東高野街道と、中高野街道、西高野街道のいずれもが紀見峠を越えて紀伊国へと続いていました。
そのうち西高野街道には大阪狭山市の篤志家2名が発起人となり、堺から高野山女人堂まで一里(約4km)ごとに道標が13基建てられました。

大阪府と和歌山県の府県境付近
紀州藩の番所跡と一里石
大阪堺市から大阪狭山市を経て河内長野市から
紀見峠を越えて紀伊国へ入る「西高野街道」には

旅人のために一里ごとに道標が建てられています。
紀見峠にある一里石には「高野山女人堂まで六里」
茱萸木(ぐみのき)村、現在の大阪狭山市の信徒2名が
発起人となり安政4年(1857)に建立されました。
紀見峠から南へ下ると橋谷の国道沿いに五里石
橋本市内には4基が現存し、全て市指定文化財です
交通事故に遭い無残に二つに折れてしまいましたが、
修復されるとともにカーブ付近から現在の地へ移転し、
本来の場所から200mくらい北へ寄っています。
明治時代に、だんじり新調あるいは購入した記録が
数台ありますが、牛に曳かせて運んだのでしょうか?
市脇先代は堺から船で和歌山へ、その後紀ノ川沿い
に橋本まで運んだと言われていますが。

いずれのルートでも大変な大事業だったのでしょう。
橋谷地区内の街道跡
昔ながらの石垣にお地蔵様が祀られています
信仰は今も変わらずお参りが絶えることはありません
東家に来ました。JR高架も「歴史街道 高野街道」の
雰囲気を残して、ええ感じです。
東家に残る紀ノ川渡船場跡です
中央やや右手に渡し場の常夜燈が建っています。
左手前に一里石が見えます。
ここに四里石があります。
周辺は区画整理事業の真っ最中。
史跡保存も宜しくお願いします。
江戸時代から明治時代までの約200年もの間、
対岸の賢堂まで無料の渡し船が活躍していました
紀ノ川を渡ると、旧家が並ぶ清水の旧街道
かつて船だんじりが担がれたと伝わりますが現存せず。
橋本(河原町)の船だんじり同様、紀ノ川水運を祈った
のでしょうか。
南馬場 丁田にある学文路天満宮の鳥居。
街道を急ぐ旅人も必ず立ち寄ったと言われ、
紀伊国名所図絵にもその賑わいが残っています。
学文路駅下の国道脇
歩道をはさんで右手が旧街道 
この場所は学文路三叉路跡と呼ばれます
学文路には三里石。
一里石建立の発起人であった小左衛門と五兵衛は
茱萸来村(今の大阪狭山市)出身。

左下に刻まれた施主 青木氏とは誰でしょうか。
ここから三叉路を南に折れて、平坦な紀ノ川沿いから
街道は離れて、高野山にむかい急坂が続きます。
歴史街道事業で新しい道標も建てられています
左 京・大坂・堺、  右 高野山女人堂、

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