橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[名所案内]−[高野街道 学文路]

紀ノ川の渡船を南岸で降りると、清水(しみず)の町並み
今もだんじりはこの道を曳行します。
西に進むと南馬場にある学文路天満宮
丁田の鳥居が高野街道沿いにあります。
高野参詣の旅人も立ち寄り賑わいました。

学文路・清水・南馬場のだんじりが宮入します。
学文路に残る一里石
高野山の入り口「女人堂」まで三里(12km)です
道は紀ノ川沿いの平坦な区間が終わり、
高野山に向かって長い急な坂が続きます。

新しい道標に学文路刈萱堂」(かむろ かるかやどう)
刈萱堂は高野街道からちょっと寄り道したすぐの所にあります。
ここには「石童丸物語」という悲しい物語が伝わっています。


筑紫の国の守護であった加藤左衛門繁氏は、愛妾の千里を妻が殺害しようとしたことに己の罪深さを悟り、国を捨て高野山に登り出家しました。
千里が産んだ男子を石童丸(いしどうまる)といい、14才になった時に父親が高野山に居ることを風の便りに聞いて、母子で旅に出て高野山のふもと学文路の里に着きました。
宿泊した玉屋で「高野山は女人禁制、女は登れない」と知り、母親を残して石童丸はひとり高野山へ向かいました。
高野山内で父を捜し求め三日目に奥の院で出会った僧に「筑紫の加藤左衛門繁氏という人を知りませんか」と尋ねる石童丸に、顔色の変わった僧こそ出家した繁氏あらため刈萱道心(かるかやどうしん)でした
目の前の石童丸が我が子と知った刈萱道心ですが、出家の掟で親子の名乗りは許されないため、「そなたの父親は先日亡くなった」と偽り、泣きじゃくる石童丸を下山させます。
学文路の玉屋に戻ると病弱の母は、旅の疲れから手厚い看護もむなしく、我が子の帰りを待てずに息を引き取っていました。
天涯孤独となり涙も涸れ果てた石童丸は、親切にしてくれた高野山の僧を訪ねて弟子になりました。
刈萱道心と石童丸は、生涯親子の名乗りをすることなく、心静かに御仏に仕えたといいます。

この「石童丸物語」は室町から江戸時代にかけて、謡曲や琵琶歌あるいは浄瑠璃などにより広く伝えられ、多くの日本人の涙を誘いました。
石童丸も往復した道をさらに高野山を目指します。
古い民家の間を縫って、あえぐような坂が続きます。

学文路区では手作りの小型だんじりで、この急坂もくまなく地区内すべてを曳行されています。

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