橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[名所案内]−[紀ノ川渡船]


橋本市の中心を流れる紀の川
東家(とうげ)と賢堂(かしこどう)間には江戸時代から明治時代まで無料渡船が運営されていました。
北岸の東家に残る常夜灯籠は橋本市指定文化財
文化11年(1814)建造
高野参詣の旅人にとって、紀の川を渡るのは大変なことでした。
天正15年(1587)に応其上人がかけた橋も数年後に流失。
江戸時代に高野参拝者の増加にともない、渡河の不便さから公営無料渡船を望む声が高まり、
橋の流失から100年あまり経ってようやく無料渡船が運営されることになりました。
東家の渡船場には「女人堂まで四里」を示す道標があります
高野街道を南下してきた旅人は、ここから紀の川を渡り南岸へ上ればそこは高野山領
いよいよ霊場高野山の入り口です
紀の国名所図絵に描かれた渡船場
当時は陵山のふもと(橋本駅周辺)にも人家は見られません
南岸の賢堂に立つ常夜灯籠
宝暦2年(1752)建立
通称、三軒茶屋と呼ばれる地名は、かつてこの地に旅人が立ち寄る茶屋が並んでいた名残です。

紀の川の両岸地区には、かつて船だんじりがあったと言われていますが、現存する橋本河原町の船楽車のようだったのでしょうか。
河南の船だんじりは廃絶して記録も不明です
渡船を無料にするというのは高野山からの提案で、周辺の各村がこれに同意して実現したものです。
費用の分担も高野山側が基金の大半を拠出、大阪の伊川屋浄栄という信者も銀20貫(約600万円)を寄進したと伝わります。
永代常夜灯
紀代常光明真言萬人
渡船の船頭は数名が組み請負制となっていました。
貨幣価値変動や物価上昇で運営は苦しくなったものの、渡船は近くに橋の架かる明治時代まで続けられました。

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