橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[史跡探訪]−[応其上人]

応其上人(おうごしょうにん)は高野山の高僧で、、橋本の発展に大きく貢献された恩人です。
橋本市橋本 本町商店街の突き当たりにある寺の山門。
応其寺と呼ばれる高野山真言宗の寺院で、応其が再興した古佐田の村寺が起源です。
静かな境内は綺麗に清掃が行き届き、応其上人の木像が脇仏として祀られています。
応其は滋賀県蒲生郡に武士の子として天文3年(1537)に生まれ、天正元年(1573)3月に37才で高野山に登り修行を重ねました。
豊臣秀吉の支援を受けて金剛峯寺の奥殿と別殿を建立し、その後の高野山攻めから山上伽藍を救うなどの功績を残しました。
明治40年におこなわれた応其上人像の除幕式
天正13年に古佐田村へ家を建て高野参詣の宿とし橋本町を開き、市脇で行われていた塩市を天正15年に橋本町へ移して、
秀吉から免税の特典を受けるなど経済発展の基礎を築きました。
写真左手には、かつて宿として栄えた建物が見られます。奥には応其寺の建物。
天正15年に紀の川へ長さ130間(約235メートル)の橋をかけて、高野山参詣の旅人や物資輸送に重宝されました。
この橋はわずか3年で流出してしまったそうですが「橋本」の地名はこれに由来します。
隅田八幡神社の宮本、隅田町垂井から山手に向かう途中の岩倉池(左写真)は天正18年に応其の力で改修がおこなわれました。
学文路天満宮の宮本、南馬場の平谷池も同じく天正18年に改修を終えており、その功績を伝える石碑も見られるなど土木事業で農業振興にも大変功績を残しました。

応其は近江国(現在の滋賀県)宇多源氏佐々木氏の出で、佐々木義秀の息子といわれています。
豊臣秀吉は織田信長の家臣になる前には、佐々木義秀の従臣であって義秀の秀という一字を譲り受けたという説もあります。

これらが本当であれば、天正13年(1585年)に秀吉の紀州攻めに際して客僧の身分の応其 が高野山の代表として和議を講じて、その後も秀吉の支援を受けて金堂や大塔を建立して高野山中興に尽くしたという行動がうなずけます。
強大な力を持った高野山と敵対することを避けるため、秀吉は近江出身で縁故のあった応其を活用したと考えられます。

 僧侶で連歌学者という応其でしたが、秀吉と島津氏の和睦交渉に奔走するなど武士としての顔も覗かせました。
その後も高野山の入口にあたる橋本に領地を与えられ、適度な距離を保ちながら住まわせたことからも高野山と秀吉の間に立つ応其の役割がうかがえます。 

高野山奥の院経蔵は、石田三成が母の供養の為に奉納して、裏書には本願応其と記されています。
これら石田三成と応其との親密な関係は、もう一つの仮設として従兄弟関係ではないかと考えられています。
 

そういったこともあり関ヶ原合戦後に、応其が高野山から近江の飯道寺に戻り隠棲したのは、高野山に居ては徳川家康から睨まれることで、応其自らも高野山も危険と感じたのではないでしょうか。 

その後は1603年に連歌の規則や作法を記した「無言抄」を表して、1608年に静かに入定しました。


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