橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[神社散策]−[隅田八幡神社]

隅田八幡神社  すだはちまんじんじゃ

橋本市隅田町垂井622番地    例祭日 10月15日

御祭神   
誉田別尊(ほんだわけのみこと)   足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) 他

京奈和自動車道の橋本東インター付近です
神社のすぐ北側を京奈和自動車道の測道が走ります
南側から参拝すると隅田川にかかる宮前橋
赤い欄干と擬宝珠に風情が感じられます
参道を北へ進むと鳥居の向こうに神社の杜が見えます
山門の石段と灯籠
だんじりは右手の道路を登り宮入します
坂を上りきると拝殿がみえます
正面石段を登ったところ
国宝の人物画像鏡のモニュメント
詳しい由緒書きです
鏡は直径19.9センチで9人の人物と方形・半円の模様
外周には我が国最古の金石文字と言われる銘が48字
「発未年八月日十・・・」とあり西暦508年8月10日と解釈

諸説があり詳細は謎ですが太古のロマンを感じます
国宝指定書です
大正5年に指定、現在は東京国立博物館に保管されています
神功皇后が大和へ帰還する際に馬をつないだという石
力石は奉納相撲の力士達が力自慢を競ったものです
神社付近案内図には奉納相撲の土俵も記されています
明治時代の拝殿
昭和初期の拝殿
昭和初期の鳥居と参道
平成の鳥居と参道
昭和26年の鳥居と参道

御旅処は隅田中学校の建て替えにより敷地が広げられたため
現在は隅田中学校正門の内側になりました。

御由緒
神功皇后(じんぐうこうごう)が筑前から紀伊の衣奈浦(えなうら)(日高郡由良町)を経て大和の都に帰還の途中、この地に滞留された旧跡であり第29代欽明天皇(きんめいてんのう)により八幡宮が勧請(かんじょう)された。
のちに隅田一帯が
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社領となり隅田の別宮と呼ばれた。長治2年(1105)中世武士団である隅田一族(隅田党)の(なが)(藤原)忠延(ただのぶ)が社務を司る俗別当職(ぞくべつとうしょく)に任じられ、鎌倉時代以降は隅田一族の氏神(うじがみ)として、江戸時代以降は隅田荘十六ケ村の産土神(うぶすながみ)として祀られ、紀州藩主徳川氏よりも厚く崇敬された。
明治43年に
丹生津比女命(にうつひめのみこと)瀬織津比女命(せおりつひめのみこと)を合祀し、大正5年に県社に列した。
国宝の
人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう)1面や県指定文化財の隅田文書37点がある。
1月15日の
管祭(くだまつり)は市の、10月15日の秋祭りは県の無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。


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