【橋本だんじり物語】−[名所案内]−[大和街道の橋本] |
奈良県に都が置かれた時代に、紀の川北岸に官道である南海道が設けられて、奈良の都から県境の真土峠を越えて紀伊国へと続いて、かつては三韓征伐を終えた神功皇后も由良港から都に凱旋したと言われます。
橋本市橋本 通称下本町商店街は旧大和街道で、江戸時代から昭和までの長い間にわたり、多くの旅人が行き交って、 また近郷近在から紀の川海運を利用する人が集まって来て大変賑わいました。 今では閉店した商店のシャッターが目立ち、人の姿もほとんど見られなくなりました。 閉店した店舗を利用して「橋本まちかど博物館」が、当時を忍ばせる写真や貴重な品々を展示しています。 |
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商店街の中に看板が見えます | |
看板にしたがい南側へ出ると、区画整理がおこなわれ紀の川までが広々と見渡せます。 紀の川に注ぐ支流「橋本川」のほとりに、太神社はあります。 |
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ここに残る石灯籠は橋本市指定文化財 橋本西町と呼ばれるこの一帯は通称を「川原町(かわらまち)」と言い、紀の川舟運の拠点として特に江戸時代に大いに栄えました。 その川舟仲間が寛政8年(1796)に奉納したものです。 火災で焼失した船楽車(ふなだんじり)は、嘉永2年(1849)に再び新調されました。 橋本(川原町)の船楽車はこちら |
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これが指定文化財の石灯籠 すぐ横まで区画整理の再開発が押し寄せて町の様子は一変していますが、史跡については大切に保存される計画です。 |
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太神宮夜燈 左側面には橋本川舟仲間が建立したと彫られています |
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ここは大和街道の一里塚でもありました。 かつては大きな松が枝を茂らせて、旅ゆく人の目印となっていたそうです。 |
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江戸時代、橋本は伊勢(大和)街道を行き交う人で賑わいました。 伊勢街道は和歌山を起点に橋本から五条・上市を過ぎ高見峠から伊勢に続き、一里ごとに松が植えられていました。 高野口町名古曽に十里松が、ここ橋本には十一里の松があったのですが、現在は枯れてしまい大きな切り株のみが残されています。 |
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大和街道は紀ノ川へそそぐ支流を橋で越えます。 橋の東詰に十一里の松と太神社があります。 |
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橋本川にかかるこの橋は「松ヶ枝橋」と呼ばれており、ここにも往事を忍ぶことが出来ます。 | |
河岸段丘の小高い丘の上から見た川原町周辺。 まもなく区画整理により一旦取り壊されることが決まっています |
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蔵や煉瓦造りなどの建物が戦災にも大火を免れて沢山見られます。 | |
何ともレトロなこの建物は医院でした。 | |
丘の上には川原町の船楽車を保管する小屋。 その近くに「鎌倉将軍社」が祀られています。 |
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この石灯籠も指定文化財。 こちらは近世以降に橋本でおこなわれていた塩市仲間が寄進したもので、川舟仲間と並んで大きな力を誇っていたことが忍ばれます。 |
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太神社から西へ100mあたりで、紀ノ川に沿って東西に続く大和街道は、南北に通る高野街道と交差します。 その地点には今も石の道標が立っています。 右 こかわ(紀の川市粉河) 左 いせ(伊勢) |
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右 かうや(高野山) 左 京・大坂 橋本は「祈りの道の交差点」と言われています。 |
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