橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[よもやま話]−[担い山車の起源]

担い山車の起源

 橋本のだんじりと言えば「担い山車(だんじり)」を連想される方が多いと思います。
平成の現在も市内各町の保有するだんじりの約半数が、橋本型担い山車(船楽車1台も担いに含む)です。
明治時代初期までさかのぼれば、全地区が担いでいたものと思われます。
京都の祇園祭に始まり各地へ伝わったと言われる山車が、各地で特徴ある発展をした中でも、このような特殊なだんじり祭りのスタイルはどうして橋本に多く見られるのでしょうか?
管理人の大胆な仮説をご披露します。

山内 境原

 最大の理由は「橋本の道路事情」であろうと考えます。
山車が祭礼に登場するのは文献では江戸時代に入ってからです。
当時の橋本市内の道路は高野街道・大和街道を除いては畦道の少し広い程度で、大型の山車が練り歩くには不十分で、ましてや数トンもある地車では堺や大阪市内のような曳行は困難であったと思われます。
 隅田八幡神社の山手地区である平野では、明治時代には山車を解体したまま川沿いの道を真土まで運んで、組み立ててから担いで宮入をしたと伝わります。
他の地区でも同様の工夫が行われていたのではないでしょうか。
比較的道路事情の良かった旧橋本町あたりも、宮入のため胡麻生まで行く道路が地車では辛かったのでは・・・
では大和街道沿いで道の良かった市脇も、明治時代の地車購入までは担い山車だった理由は?

 それは第二の理由である「紀の川」です。
東家・市脇は相賀大神社へ宮入しますが、かつて神輿渡御の御旅処は紀の川対岸の清水にありました。
橋も無い時代に渡御に列するには地車では不可能で、担い山車である必要があったのです。
隅田八幡神社でも紀の川南岸の赤塚・上田・恋野・中道が宮入するには担いで渡川する必要があり、それらの理由もあって全氏地で同様の担いスタイルによる山車が使われたのだと思っています。

町の中心を流れる紀の川 夕景(橋本高野橋より)

 道路が整備され橋が架けられてから、担い山車から曳き地車に変わる地区が多くなりましたが、約半数の地区では伝統のスタイルを頑なに守り続けておられます。
橋本が誇る祭り文化「橋本型担い山車」をいつまでも大切に担ぎ続けて欲しいと願います。

情報を提供くださった皆さん有り難うございました。

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