橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[よもやま話]−[橋本の祭礼日]

秋祭りの由来と橋本の祭礼日

 橋本の秋祭りは鎌倉時代に荘園支配のもとでおこなわれた放生会(ほうじょうえ)であると言われます。
放生会とは三省堂の大辞林によれば「供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式。陰暦八月十五日(現在では石清水祭の名で九月十五日)に石清水八幡宮の神事に行われるものが有名。
秋の季語でもある。」と書かれています。
仏教思想に基づく放生会は奈良時代から行われていましたが、平安時代に八幡信仰に取り入れられ鎌倉時代には石清水八幡から勧請をうけた各地の神社でも盛んに行われたと言います。
隅田荘や相賀荘でも放生会を盛大におこなうことで氏神への団結と忠誠により支配体制を強化して勢力を誇示していたのです。
 弘安8年(1285)7月「藤原長俊 舞童雑事米寄進状」や、嘉暦2年(1327)9月の「良久立願文」などの隅田八幡神社古書によると、13世紀当時から放生会が行われていたことが分かります。
 「市脇相賀大神社古文書写」によると天授3年(1377)の八月放生会の供え物や趣向に関する記述があり、根来寺や岩手荘(岩出市)からも供え米があって田楽神楽などに配られたことが分かります。
 文亀2年(1502)「胡麻生八幡祭文写」によると「・・・百姓等白妙之御幣・・・八月十五日以令申給事、毎年御神事、御放生会御頭人勤給事有」とあり、祭礼の原型や祭祀組織が生まれていたことが分かります。

 放生会にはじまる橋本の祭りは江戸時代になって「だんじり」が氏子総出で出されるようになり、神官らによる神事中心のものから盛大で賑やかな村祭りへと変化していき、明治時代に神仏分離令が出されると仏教思想による放生会の色彩が無くなって、農業地帯であった橋本では五穀豊穣を神に感謝する秋祭りへと変化して今に至るのです。

 放生会がおこなわれていた陰暦8月15日は太陽暦では9月中旬にあたりますが、明治40年(1907)の県令により例祭日は旧暦8月15日より新暦10月15日に変更されました。
10月祭礼は約100年前からなのですね。
 その後、昭和32年(1957)9月市議会で「10月15日を橋本市の地方祭とする」条例が可決されて、国民の祝祭日同様として扱われ行政機関や小学校などは休みとなりました。
 しかし大規模宅地開発により新住民が急増して住民意識の変化が起きたため、平成2年(1990)に条例は廃止されました。
平日開催で若者の参加が減少するなど祭礼運営が困難となり、平成5年(1993)から「10月第二土曜日を宵宮、翌日曜日を本宮」と定めて、700年以上続いた祭礼日固定は無くなり毎年カレンダーに伴い変動することになりました。

 祭礼日変更は市内の神社が全て同じだったわけではなく、一言主神社(山田)は氏子や神社の意向で当初変更されず、後になり山田地区も10月第二土曜日を宵宮としました。
学文路天満宮の祭礼日は旧暦9月25日でしたが、橋本市条例で地方祭を10月15日と定めた後も新暦10月25日を例祭日としてきました。現在は10月第四日曜になっています。

 後年になってこの「第二土曜日と翌日曜日」という決め方が面白い効果を生むことになりました。
つまり通常の年は泉州10月祭礼地区と同日になりますが、暦の並びによっては一週間後にずれる現象が起きることです。
最近では平成18年と19年は2年連続してずれたため、泉州各地の祭礼見学が可能になり楽しませていただき、また泉州各地から大勢の見物人や助っ人が橋本へお越しになりました。
今度ずれるのは何年先になるんでしょうか?その節には泉州10月祭礼地区の皆さん、橋本へも是非お越し下さい。


学文路天満宮 隅田八幡神社

橋本市史を参考に一部引用しました

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