【橋本だんじり物語】−[よもやま話]−[学文路天満宮 懸魚の謎] |
享保2年(1717)の古書に「清水の西と東の垣内から二台のだんじりが出た。馬場村は船だんじりを出す。」という記述が見つかっており、かつて学文路天満宮には少なくとも3台のだんじりが宮入りしていたことが伺えます。
しかし、それらのだんじりの行方は不明となっています。
現存する古いだんじりは境内の小屋で保管されている大きな担いだんじり(宮付き屋台)だけです。 古老の話では昭和の御大典を最後に担がれることは無くなったそうですが、これ以外のだんじりについては語り継がれていません。 この宮付き屋台の大きさと神社周辺の道路事情から考えて、氏地を担いでまわるのではなく、祭礼時に境内でのみ担いで練られたと推測します。 |
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これは明治12年新調と墨書きにより確認出来ます。しかし、神社の社務所が大火で焼失したため多くの記録が失われてしまい、これ以外の手がかりは確認出来ていません。 清水や馬場の村にあっただんじりはどこへ行ったのでしょう。廃絶しても彫り物や幕が保存されているかもしれません。 しかし近隣の在所にはそれらしい伝承も無いようです。 左の墨書きに「再造」という文字が見られることから、もしかしたら近郷のだんじり彫り物を再利用して新調されたのでは・・・ しかし枡合いや勾欄合いなどの彫り物は木の状態や彫りくちからみて、寄せ集めではなく確かに一体のものです。 そうなれば本体が大きすぎて、氏地をまわり狭い道路を宮入りするのは不可能ですから、彫り物再利用説はボツとなります。 |
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もう手がかりも失われたか、と思われた時に神社の懸魚が目に入りました。 上遷宮により建て替えられた建物と明らかに製作年が異なります。 |
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また唐破風のアールと合っていないため、別の目的で作られたものが取り付けられた可能性があります。 |
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よく見ると彩色のあとが見られます。 神社建物の懸魚に彩色はまれですから、だんじり彫り物が解体にともない奉納されたとは考えられないでしょうか。 そうだとしたらどこの地区のだんじりだったのか、いつの時代の彫り物なのか、獅子噛みや枡合いなど他の彫り物の行方はどこに有るのか大火で焼失したのか、謎は増すばかりです。 学文路天満宮の氏地にあるお寺やお堂や祠に彫り物がありましたら、解体したさいに分けて奉納されたものかもしれません。 何かそういった情報が有りましたら管理人までメールでお知らせください。 |
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