橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[よもやま話]−[だんじりの役割]

だんじりの役割

 古来祭のクライマックスは神輿渡御で、だんじりは添え物と位置づけられていたようです。
その役割は神の渡る道や場所を清めるという意味があり、運行の仕方にも様々なスタイルがありました。
祭は祭祀を司る神官や村の世話役が行っていたものでしたが、江戸時代後期から庶民がだんじりを出すことで参加するようになり、最近ではだんじりが祭の中心となりつつあります。
しかし、古の伝統を今に伝える形態も随所に見られ、また様々な発展を遂げてきたことが伺えます。

 だんじりは神様に芸能などを奉納するための移動式舞台がルーツと言われます。
そのため壇尻または段尻という文字があてられていました。
明和4年(1768)の赤塚 田中家文書には「御祭礼段尻」という記述がみられ、これが橋本で最も古い記録です。

 岸和田でも当初は長持ちのような箱に太鼓を載せて曳いていたと言われています。
やはり初めは演台として芸を奉納するのが役割であったのが、段々と彫り物や細工金具や幕などが加わり豪華になり、岸和田城門をくぐるために屋根を上げ下げするからくりまで開発してしまいます。
だんじりは舞台ではなく、それ自体を曳いて宮入りすることに意味を持つようになり、贅を尽くし見応えを競うようになり今に至ります。

 大阪市や堺市では江戸時代に多くのだんじりが町を曳行されており、邪気を払って疫病退散を祈ったといわれています。
大阪市内で見られる龍踊りなどはその時代の名残りでしょうか。

 河内地方では宮入りの際に「仁輪伽(にわか)」と呼ばれる芸能を青年団が披露する伝統が続いています。
演題は地域により、時代により若干異なるようですが、次郎長伝などの股旅物が多く見られます。
大阪府南河内郡を流れる石川周辺で見られるだんじりは「石川型」と分類されていますが、大屋根下の勾欄まわりが前に広くせり出して、仁輪伽を演じる舞台となっていることから地元では仁輪伽だんじりと呼ばれています。

河南町 壱須賀神社の一須賀 富田林市 美具久留御魂神社の木戸山町

 兵庫県姫路市網干区にある魚吹八幡神社では3〜4台のだんじりが出され、移動式舞台として渡神殿や楼門前で奉納芸が行われています。
舞台としての機能を追求して大屋根を支える四本柱のうち前二本は取り外し可能という構造です。
広々とした舞台では歌や舞い踊りが披露されます。

屋根柱を取り外すだんじり(魚吹八幡神社) 奉納芸を行う新在家だんじり

 橋本市ではだんじりの上でどのような芸が披露されていたのでしょう?
そう考えてみると・・・特に伝統の芸が伝わるわけでもなく、古書にもそれらしい記述も見あたらず?!
いったい我がご先祖さまたちはどのような祭をされていたのでしょうか?

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