橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[よもやま話]−[紀見地区よもやま話]

各地区で伺ったよもやま話です。「 」内はだんじり囃子研究会の林さんが平成10年に出した本「橋本の秋祭り だんじり囃子」より、
各地区へ研究のためお邪魔した際に伺ったよもやま話をお許しを得てご紹介しています。

「胡麻生の相賀八幡神社のお祭りは統一された地方祭の日に行われる。
従来は神社の神輿のほかに氏子字の山車5〜6台が出て賑わった・・」当時の山車宮入地区は胡麻生・橋谷・小原田・古佐田・橋本に柱本で戦前は全て担いだんじりであった。

【北馬場】
 続紀伊風土記によれば古佐田村の北10町ばかりの所にある。村中に相賀八幡宮の遊覧所の跡があって、少し森の形を残す。
古くはその所に流鏑馬などの馬場があるところから村名となったとあります。
戸数は少ないが平成7年に紀見からだんじりを譲り受けて以来、平成15年8月に妻より購入、平成21年12月に和泉市寺門より購入。
地車は大きく本格的になりましたが昔ながらの住民総出の秋祭りを続けています。

【紀見】
昭和50年代に区役員らが御幸辻から町内だんじりを購入して祭りが始まり現在に至る。
購入の動機はだんじりが無くては子供たちがかわいそうだからであったそうです。
先人の決断で蒔かれた種はその後大きく育って、平成7年に小原田先代を購入、その後平成19年に
堺市檜尾中山から岸和田型地車を購入し、祭礼運営は年々活発になりつつある。

【胡麻生】
村名は慶長検地帳には胡門とあり、古書には御門ともある。長藪城の城主である牲川氏の居宅があったと伝えられる。
若連中組織を胡誠会(こせいかい)と呼ぶ、相賀八幡神社の宮本で祭礼運営全般を取り仕切る。

「宮本の山車は一際大きく、威風堂々として貫禄を備えている。明治22年に厄払いのために新調したと伝えられている。
鵺退治の山車幕は見事で大胆な構図と筆の勢いは見る人の心をとらえる。長年使用された幕は郷土資料館に展示保管されている。
縄ない山車の別名を持つことを今は知る人が少なくなった。」やはり胡麻生でも青年達が早朝から縄をなって資金を作ったのでしょう。
先人の苦労を忍び後世に伝えていくことが大切ですね。

【橋谷】
続紀伊風土記に「辻村(御幸辻)の北八町にある。村中小谷川多くて土橋を架ける。橋谷の名はこれより起こる。」とある。
先々代は担いだんじりで新調年などは不明であるが、古いだんじり幕を入れていた箱に昭和のご大典を記念して新調し直したとの墨書きがある。
若連中組織を桜梅会(おうばいかい)と呼ぶ。
平成17年の地車購入を機に翌年から橋本駅前パレードにも遠征。
「橋谷の山車は、以前は布団を重ねたような屋根をもち花笠のような飾りを付け他と形を異にし、太鼓にも特色があったが近年これも綱で曳く地車に替えられお囃子も大々的に変わった。」
林先生がおっしやる通り今では泉州調のお囃子です。以前のリズムを知る方も少なくなってきました。

【柱本】
紀見峠(きみとうげ)・沓掛(くつかけ)・柱本(はしらもと)の3地区合同で運行している。
各地区の隅々まで曳行するが、狭い道と急坂が多くたいへんだという。
橋本市柱本の最南端国道西にあるリハビリ橋本まで曳行するが、施設入所者が毎年大変楽しみにしておられて喜ばれている。
先代は隅田八幡氏地より購入の担い山車、遠路を胡麻生の神社まで担いで宮入していた。
道中で休憩時に国道をふさいだままにしていても、めったに車は通らなかったという。
通りかかっても車を降りて山車見物したり、急ぐ車はご祝儀をくれて山車を道端に移動したり、のんびりした時代だった。

【御幸辻】
続紀伊風土記に、小原田村の北五町にある。東家より寺脇、小原田、辻、橋谷、慶賀野、柱本を経て紀見峠に至る街道にある。
古道は当村より分かれて二つとなることから辻村と名付けられた。とある。

地車購入にともない平成18年に若御会(わかみかい)を結成し、また任意団体であった地車愛好会を区組織である地車保存会に組織替えした。
平成18年地車購入にともない法被を一新、町紋のデザインは御幸辻の字を囲み8町内が輪になることをイメージ。
5月連休に「しあわせの辻フェスティバル」として、地車展示・やっちょん踊りなどのイベントを実施。
平成19年、はじめて氏地を出て橋本駅前まで曳行されたが、それ以前は町内曳行のみであった。
さらに20年からは紀見などの他地区まで足を伸ばすなど交流している。

平成21年に隆匠で大修理をおこなった。

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おことわり  境原は行政上は紀見地区ですが、宮入神社で分類して隅田八幡地区で紹介しています。
また胡麻生の相賀八幡神社へ宮入する小原田・古佐田・妻・橋本・原田は行政上の橋本地区で紹介しています。

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