橋本だんじり物語 橋本だんじり物語】−[よもやま話]−[隅田八幡よもやま話]

各地区で伺ったよもやま話です。「 」内はだんじり囃子研究会の林さんが平成10年に出した本「橋本の秋祭り だんじり囃子」より、
各地区へ研究のためお邪魔した際に伺ったよもやま話をお許しを得てご紹介しています。

【境原】
 日頃は解体して箱に入れて大切に保管しており、祭礼当番の宵宮前日から組み立て作業をして会館前に据え置かれるため、会館前の生活道路は自ずと通行止め状態となります。
今のように道路が整備される以前はこの道路がメインで唯一自動車が通行できる道幅でしたが、今のように車が有るわけでもなく何の問題も苦情も有りませんでした。
 岸和田型のように前方に交差旗を付けられますが、戦前の青年団活動が活発で有った頃から「紀見村境原青年団」という団旗を付けるようになったとのことです。
岸和田旧市では中之濱町が最初と言われますが、各地でも当時同様のことが有ったのですね。
 「小学校のクラブ活動で郷土の芸能ということで、子供達の練習が行き届いていて、子供達だけでも笛・太鼓の演奏が出来る。祇園囃子・七つ返し・八つ返し・走り太鼓と”なが”という曲がある。」
太鼓は3連で神社紋の巴が許されているのは境原だけというのが自慢で囃子方の誇り。境原小学校のクラブ活動にも太鼓クラブがあり、お囃子の伝承は万全。

【杉尾】
 だんじりは明治期に廃絶して現存せず。古老の話では隅田八幡氏子地区で最大を誇り、当番の年には霜草まで部品を運んで組み立てて宮入したが、完成まで三日を要したという。

【霜草】
 「平成10年が宮入の当番であるが、平成9年にもお宮の奉祝祭にも山車を出す張り切りよう。祇園囃子・七つ返し・八つ返し・走り太鼓と”ぶちこみ”の5曲。
ぶちこみは宮坂を上がった所から本殿までの間だけに叩く太鼓である。他の地区には無い。
太鼓の移り叩きに賢明の練習。笛の種類を揃えたら音色がもっとキレイになるのだが・・・当日、境内での激しい担ぎでは勢いに押されて音色は問題では無かった。
豆絞りを巻き親譲りの笛を誇らしげに奏でつつ山車の世話に走り回る。」
 炊き出しはいつも関東炊き(おでん)で、地区内にある養鶏農家から卵の差し入れをいただき、ふんだんに卵が振る舞われるのが常である。
本宮夜の神上(かみあげ)には酒がすすみ宴は遅くまで果てることが無い。
以前は各地区からの応援の方も一緒に呑んで各地区懇親・交流の機会であったが、近年飲酒運転防止のためお土産として酒肴を渡して、各地区ごとに地元で神上をしてもらうようになり少し淋しい。

【山内】
「山里に笛・太鼓の練習の音が夏休みの頃から響く。練習が行き渡った頃に録音をお願いしたら大勢の人が揃って待っていてくれていた。
伝統ある笛・太鼓を正しく残そうと音楽を習ったという娘さんが楽譜にしてくれていた。」

平成24年の当番にあわせて法被を新調。山車幕の図柄である富士の巻狩りにちなみ、富士の下に山内の文字。

【平野】
 「今の山車は土地の大工・水脇さんの作で、明治22年に作ったものと言い伝えられている。当時、青年達が縄をない費用を捻出して作ったものと言われている。」
どこかで聞いたような話ですね・・・鳳の上では青年団が早朝起き出して縄をない地車新調資金とした精神を忘れないため、今でも鶏鳴と呼ばれているという伝説と同じではないですか!
明治時代のだんじりブームに熱く燃えた青年達は、どこにも大勢居たんですねえ。平野の青年達も先人の意志を忘れず伝統を守り伝えてください。
 「古い山車は柱本地区に買われていったが今は壊れて無い。残されている床板には文化14年の墨書きがある。
山車は解体して箱に入れられて保管、遠い山道の巡行は大変なので、真土まで解体したまま運んで、そこで組み立てて宮入したという。」・・・文化14年は西暦1817年、約200年前の新調ですね。
 「お囃子は笛と太鼓3つ、祇園囃子・五つ返し・宮坂・親子獅子舞・走りの5曲。
親子獅子舞は他地区にない叩き方で二人の叩き手が3つの太鼓を叩き、中の太鼓を取り合いながら打つ。この太鼓が始まると他の山車は見に寄ってくると自慢。境内で奉納される。」

【垂井】
「垂井の山車は前のを柱本に譲って和泉で買ってきたものだと言い伝えられている。
欄干に彫り物の有るのが他の地区のものとは異なって自慢のひとつである。床板の裏に一筋の墨書きがあるがはっきりと読み取れない。
新調しようとの話しもあるとか。」林さんの取材は平成9年であったが平成12年に垂井山車は新調され現在に至ります。
 宮本地区にあたり他にない毎年宵宮に山車を出す特権を持つ。 炊き出しには松茸ご飯の握り飯が振る舞われた!?とのことで羨ましい限りです。
新調に際して彫り物を増やして他所より大きく等と注文を付けたところ、先代に比べてかなり重くなり担ぐのが大変になりました。
 「どの地区でも揃いの法被を着る。責任者は袖に2本の白い線が入ったハッピを着る。子供の頃には、そのハッピが格好良くて、いつかあのハッピを着たいとあこがれたという。」

【芋生】
祭が近づくと集会所でお囃子の練習がおこなわれる。子供から中高年まで、女子高生も加わり賑やかに練習が続く。
だんじりは彫り物をそのまま使用して地元大工の手で平成4年に新調された。彫り物には珍しい図柄「浦島太郎」が見られる。

山車幕の那須与一 扇の的も橋本では珍しい図柄。

【中下】
当番以外の年にも毎年山車を出して地区内をまわる。だんじりは平成5年に地元大工により新調。
先代より流用された彫り物には「唐獅子牡丹」「竹に虎」などの図柄が多く、懸魚には亀(玄武)という珍しい図柄が用いられている。

【中島】
 「若手が揃っているので威勢良く、笛・太鼓の練習も行き届いて上手だとの評判である。
笛の音色も揃って綺麗な響きである。太鼓も歯切れ良いリズムでさすが評判通り。
三つの太鼓はしっかりした緒で網目に結ばれ、これが他にない結びで古くから伝えられた特徴だという。」
今もサラシで太鼓を包む化粧が一般的ですが中島と垂井・中下のみ綱目を見せるようにサラシをかけません。。

【下兵庫】
 明治24年の新調と伝わる。彫り物は獅子噛み・素戔嗚尊八岐大蛇退治・牡丹に唐獅子などであるが彫り師不詳。
地元ではくらがりの九鬼虚白が彫ったものと伝わる。
九鬼虚白は明治10年の内国勧業博覧会に出品し、大久保利通より表彰を受け、翌年のパリ万国博覧会にも出品した人物。
橋本市史には吉田の彫り物?と記されている。
 だんじり幕は龍虎、源義家、前九年・後三年の役、中幕は応神天皇である。
幕箱のふたには明治24年新調の記述があります。山車運営組織を共進社と呼びます。
担い棒の両端には「共」の文字の金物装飾が付けられていますが共進社の共です。
 だんじり納庫はかつては利生護国寺山門を入り左手の本堂南側にありました。
しかし山門をくぐって出入りするのが困難で、平成6年11月13日に現在の位置に竣工しました。
非番の年にも毎年子供山車が地区内を曳かれてまわります。
舟形で唐破風屋根の山車は昭和53年10月15日に新調お披露目曳行されました。
普段は地区内北部の若宮神社の小屋に格納されています。親だんじり・子(子供)だんじりと呼び分けています。

【河瀬】
平成5年に地元大工の手により先代彫り物を再利用して新調されました。
幕は平成2年に大修理をされました、図柄は巻龍、神武天皇東征、有栖川宮江戸城進撃などです。

河瀬は区の組織として、「山車運行委員会」という10代〜50代の、だんじり好き組織団体を作っています。
別に重鎮が中心の「山車保存会も」あります。
だんじりの準備から運行まで、運行委員会が中心で行います。笛や太鼓の練習も同様です。
練習は10月はじめに区民会館で、子供たちを含めた練習となります。
宵々宮は、太鼓と笛をトラックに載せて区内を回ります。(雨天の場合は別です)
運行委員会は、笛を吹く人材が不足しており、少しでも吹ける人材を増やそうとしている。

【恋野】
「平成9年に幕を新調して張り切っている。祭り当日の晴れ姿が待ち遠しい。
恋野橋が無かった頃は舟で川を渡って宮入したのだという。恋野橋の少し上手に渡し場があったという。
笛・太鼓を次代に伝えようとコンピュータで楽譜作りをしていた。」立派な山車小屋も新調された。
美少年コンテストに恋野の少年が挑戦し篠笛を吹くパフォーマンスで見事グランプリを獲得!
芸能界デビューして活躍中で忙しい毎日を送っているが、3年に一度のだんじり当番には恋野へ帰って祭をしたいと言ってるらしい。

【赤塚】
日頃は解体されて国道沿いの小屋に入っており、防災センターへ運び宵宮午前に一気に組み上げる。
明治中期の制作で大工は地元の織田友三郎という。彫り師は不詳であるが牡丹に唐獅子・獅子の谷落としなどがみられる。平成元年に修理、幕も復元した。

【中道】
明治中期に新調と橋本市史にある。幕箱のふたには明治23年の墨書きが残る。
途中大修理もおこなうが老朽化から平成18年に地元の大工 山本忠良により先代彫り物を使用して新調。
中道の青年団組織は共進社と呼ばれており、下兵庫の競進社とは発音は同じだが字が違う。
昔は紀ノ川にかかる狭い橋を渡って宮入したが、狭い橋の上は担い棒の横手で担ぐことが出来ず、前後の数名で担いで渡った。
担ぎだんじりの屋根は和紙を貼るものが多いが中道は貼り方や紙が他所と違う。御幣も昔ながらの伝統を守り続けている。

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おことわり  境原は行政上は紀見地区ですが、宮入神社で分類して隅田八幡地区で紹介しています。

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